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毎日かく整然とかくうそをつかない

2017.1.24.主に恥と愚かさに対しての覚悟について

 このブログは思考を整理するためには文章にすることが必要な気がしたから書く。大人になってもそれは変わらないことなのかもしれないと感じている。
 私信だというのに全体公開なのは大きな大きな自己顕示欲とほんの少しの言い訳があるからだ。
 眼があった方がこの文章の趣旨である「整然とかく」を守って書けそうではないだろうか。そういう言い訳だ。

 試験に落ちるとどうなるのか。無職だ。無職にならなくてもよかった。他の自治体の図書館で行われている就職試験を受ければよいからだ。やはり無職になりたいのだ。そういう気持ちがある。誰しもある。無を冠した要素を自らに取りれたいのだ。決めつけと冗談だ。
 無職になると、(職を失うと、)どうなるのか。考えたのはいつも行く銭湯でだ。銭湯でしか考え事が出来ないんだけど。問題は見つかった。恥と愚かさだ。そして恥と愚かさに対しての恐怖だ。恐怖がイヤなのだ。とにかくそうなのだ。ハム太郎
 恐怖がイヤならどうするか。覚悟を以てして対する。覚悟を決めなければならない。そしてその覚悟を忘れないことが肝要だ。落ちることによって生じる衝撃に覚悟するのだ。高所から境界に着地するときのように。
 日々に戦いがある。水泳競技の大会において自分の番が回ってくる前のような緊張があれば、それは戦いと認識してよい。大人になっても戦い続けているという実感があるのはハイソサエティの人間のみに許された特権であるかのように誤解していた。生徒会が文化祭を運営するように、証券会社では天文学的な数値の金額を動かすのだ。チームを動かし、事象に対処している。そしてそれが自分にとっての就職試験だった。面接の20分くらい前に気付くとは。遅すぎる。
 戦いは楽しい。きっと正解だろう。そうでなければ納得できないことが社会にも生活にもインターネットにも起こっている。日々に戦いがある。日々に幸福はなくとも。戦いの幸福は日々にある。
 恥と愚かさとは。今の職場に居続けることができないということだ。それは複数人に迷惑をかけることなる。そして情けない。試験に落ちることは恥ずかしいことだ。そして複数人の人間は「あの人は受かるべきだ」と考えていると予想される。受かるべき人間が受からないのは自分の場合、努力が足りていないことが第一、資質に欠けているのが第二だ。自分の至らなさが他人の期待を裏切ってしまうから、恥ずかしい。
 希望的観測は現在自分の置かれている立場では役に立たない。試験に対して不誠実だったこと。その不誠実さが愚かさの証明と裏切られる期待と不甲斐なさにつながる。上記は悲観的観測ではなく事実だという実感がある。つらい。つらいが、それに対して覚悟を決めることが日々の戦いなのだ。
 覚悟とは。現実を見つめることが覚悟なのか。実感を持って起こるであろう未来を想像することが覚悟なのか。違うような気がする。納得が必要なのだ。最近、他人の恋愛にしても、他人の瑣末な相談にしても、納得がなければならないと思うことが多い。来る現実に対して納得しなければならない。あきらめでもなく、逃避でもない、納得。でも実感のある想像と言うのは必要なのではないだろうか。想像したことを飲み下し、消化することが納得に繋がるのではないだろうか。「AがBになる。それによりCができる。」そういうことを思い、論理で解釈する。現在の自分の場合、どうか。
 試験に落ちることにより、上記の愚かさと恥が生じる。そのことにより自分の気が落ちる。悲しむ。日々がままならなくなる。かなりつらい状況になるだろう。つらい状況とはそれすなわち戦いだ。無職を求める気持ちは戦いへの憧憬と重なるのかもしれない。
 自らが悲惨な状況に置かれることに対して、面白みを感じる人間がいる。「面白くなってきやがった」というやつだ。自分もそうだし、人畜無害な腐臭が漂う今の職場である図書館にそういう人間はいないのだろうと思っていたが、いた。彼女も戦いたいのだろうか。主観に依ったハイソサエティの人間たちが日々戦うのをみて、憧憬をもったのだろうか。
 裁きの日が来るまで、忘れないこと。そして想像すること。解釈すること。最後には納得すること。