毎日かく整然とかくうそをつかない

2016.2.8.定番とは

 毎日書けっつってんだろ。毎回毎回布団に入った時点で「日記書いてない」って思い出すし。どこかしらで「あ、これ日記に書こう」って思ったこともメシ食ったら凄い勢いで忘れていく。
 なのでファッションについて書く。覚えているうちに。生活工芸プロジェクトの「人と物」そして三國万里子「うれしいセーター」を読んで思ったことだ。生活工芸プロジェクトについてはググったくらいでは調べてもよくわからんかったのでなんとも言いようがないが、三國万里子は「気仙沼ニッティング」の人らしく、ほぼ日界隈の人間らしい。ナチュラル志向についてバカにしつつ物は良いので買ってるみたいなところがあるので、こういう本はバカにしつつ楽しんで読んでいる。もうそろそろ廃れそうな概念なのでいいことだが、「定番」というラベルがファッションとして存在している。本来定番というのはファッションとは対を成す意味を持っていると認識している。買い替えを必要とせず、永く楽しめるものとして「定番」というラベル貼りを商品にするのだ。たしかに本を読んでいると40~50年使い続けている、なんて言が書かれていることもあるのでそれはたしかに本来の意味からしても「定番」といって差し支えはない。しかし、本を読んで、ネットで調べて、たまに店に通い、安くで手に入れようと苦心しながら定番商品を探し続けていると、当然ながら、膨大な数の「定番商品」が知識としてストックされていく。物を多く持たなくていいという利便性を持つ「定番」であるのに、「定番」を知れば知るほどより多くの「定番」へと物欲の食指が向いては向いていく。これはいかに。こうも膨大な種類の「定番」が欲しいとなると、「定番」の持つ「脱ファッション」という魅力がないに等しいではないか。むしろ数々の「定番」というラベルで構築された「ファッション」そのものではないかという気さえしてくる。魔王を倒そうとダンジョンを攻略していたが、攻略していたダンジョンが魔王の腹の中だったかのような感覚である。少し違うが。おそらく「定番」という概念は収集してはいけないものだったらしい。しかし「定番」とは歴史や知識に裏打ちされて「定番」と呼ばれているのだから、情報を収集し、サーチアンドデストロイになるのは必定なのではないのか。そう、これは愚痴である。要は「自分は結局ファッションから抜け出せないではないか!」という陶酔じみた悲痛な叫びなのだ。