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毎日かく整然とかくうそをつかない

2017.1.27.半分通った

 裁きの日が来て赦された。なんとかあと一年は働けるらしい。安心しましたか?
 とりあえず通ったことでやらなきゃならんことがようさんあることに気付く。
 羅列。
 日ペン。減量。筋トレ。森見登美彦ウテナ京都市政。公務員試験通信講座。野菜に会う。正規採用試験の話を同僚に聞く。溜めているLINEの返信。まんがタイムきららミラク読者アンケート投函。
 五十行くらいになるかと思ったが意外と少ない。正規採用試験いったいどんな問題が出るの。。。。。まずそれを収集しなけりゃ話にならんのでは。人とブッキングし続ける人生だった。。。。開放感はないが、明日明々後日ブチカマす。

2017.1.26.怒りと眠み

 怒りは生きるエネルギーなんだろうきっと。裁きの日がいつ来てもおかしくないというのに、職場のアルバイトに腹が立つ言い方をされるだけで怒りで不安さえ吹き飛んだ。
 怒っているとき、自分が間違っている気がしてしょうがない。だけど怒っているので通らない文句ばかりが次々に頭をよぎっていく。
 尊敬している人間に正しいことを言われるとひどく悲しいのに、見下している人間に正しいことを言われた時の怒りの勢いがすごい。人間らしさがえらいことになってる。俺は正しい、とか、俺は一生懸命やってるのに、とかしょうもない言い訳しか出てこない。他人事のように筋道立てて考えられないのは怒りにしてもなんにしても同じだ。
 人を見下していない人間なんているのだろうか。そもそもそんなことを考えるからいけないのか。
 怒りのおかげで不安がない。ありがたくはない。悪い夢が見れそうである。

2017.1.25.警察官は昇進試験が多いので面接がめっちゃ上手くなる

 生きていれば自分の能力を話す場面は面接でなくともきっと多かろう。コンビニバイトだろうが官僚だろうがバンカーだろうが自分のできることを話さなければならない場面は等しく訪れる。前回の面接において「一番困った人間を挙げ、どのように対処したかを述べよ。」という質問が一番苦慮した。そう言う話が同僚である先輩に回った。そしてその先輩の夫にさらに回っていった。その人物はそこそこしっかりめに警官をやっている。とのことだ。どのくらいのしっかり度合いかといえば、通勤にマッキントッシュフィロソフィーのコートを着るくらいにはしっかり警官をしているらしい。刑事ではないがかつて機動隊方面だったとのことだ。とても羨ましい。本心で尊敬と羨望の眼差しで真っ直ぐ見つめることができるのは、機動隊上がりで都市部で警官をやっている人物くらいではないか。むしろそれ以外は見下して過ごしていても構わないのではないかとさえ思う。その人が言うに、「自分の能力を挙げさせられるとき、自分にとって簡単だった事例をさも苦労したように演出して言うに限る。」ということだった。面接官が元上司だったがため、ウソをつけないという観念が先行しそのような発想に至れなかったのは残念だ。その発想さえあれば楽しげに回答できただろうにと思う。ウソではあるが、完全に虚偽ではないように感じる発想だ。いわば「演出の範疇」というやつなのだろう。「うそをつきたくない」と感じても、うそをつくことでしか会話を盛りたてられない昨今の自分にはリハビリになりそうな発想でもある。禁煙パイポ的発想である。
 自分にとって巨大な事象を解釈して出力するとき、巨大さを無視して始終見渡せる事象をさらに単純化し、手のひらに載せられる程度にして、それをよく観察し、観察によって見えた様々な事実を出力するということか。それは巨大さを無視するという点でいきなり不誠実ではある。まあでもうそをつくよりは良かろう。何より禁煙パイポの代わりなのだから。リハビリ。
 それにしても、現実を見ることができない。どうしても希望的観測によって精神を安定させようとする自動装置が心中にあるらしい。自分はどうやら厳しい現実を直視しながら陽気である人物を目指している。矛盾を感じる存在だそれは。精神を乖離して両立させようってモンに近くはないか。修羅じゃん。
 修羅じゃん。とか言っている場合ではない。修羅じゃん。とか言っているうちに裁きの日は訪れ、自分に噛み付いて毟り取って行くのだ。未来を具体的に想像する必要がある。職を失って東京に行くにはどうすればよいのか、そういうことを細かに想像していく必要があろう。東京の仕事を探す、くらいしか思いつかない。「AがBにになり、Cとなる。」という論理を適用しなければならんのに、漠然とした未来しか想像したくない。疲れたくないし、面倒くさいのだ。怠惰がいつも自分に深手を負わせる。

2017.1.24.主に恥と愚かさに対しての覚悟について

 このブログは思考を整理するためには文章にすることが必要な気がしたから書く。大人になってもそれは変わらないことなのかもしれないと感じている。
 私信だというのに全体公開なのは大きな大きな自己顕示欲とほんの少しの言い訳があるからだ。
 眼があった方がこの文章の趣旨である「整然とかく」を守って書けそうではないだろうか。そういう言い訳だ。

 試験に落ちるとどうなるのか。無職だ。無職にならなくてもよかった。他の自治体の図書館で行われている就職試験を受ければよいからだ。やはり無職になりたいのだ。そういう気持ちがある。誰しもある。無を冠した要素を自らに取りれたいのだ。決めつけと冗談だ。
 無職になると、(職を失うと、)どうなるのか。考えたのはいつも行く銭湯でだ。銭湯でしか考え事が出来ないんだけど。問題は見つかった。恥と愚かさだ。そして恥と愚かさに対しての恐怖だ。恐怖がイヤなのだ。とにかくそうなのだ。ハム太郎
 恐怖がイヤならどうするか。覚悟を以てして対する。覚悟を決めなければならない。そしてその覚悟を忘れないことが肝要だ。落ちることによって生じる衝撃に覚悟するのだ。高所から境界に着地するときのように。
 日々に戦いがある。水泳競技の大会において自分の番が回ってくる前のような緊張があれば、それは戦いと認識してよい。大人になっても戦い続けているという実感があるのはハイソサエティの人間のみに許された特権であるかのように誤解していた。生徒会が文化祭を運営するように、証券会社では天文学的な数値の金額を動かすのだ。チームを動かし、事象に対処している。そしてそれが自分にとっての就職試験だった。面接の20分くらい前に気付くとは。遅すぎる。
 戦いは楽しい。きっと正解だろう。そうでなければ納得できないことが社会にも生活にもインターネットにも起こっている。日々に戦いがある。日々に幸福はなくとも。戦いの幸福は日々にある。
 恥と愚かさとは。今の職場に居続けることができないということだ。それは複数人に迷惑をかけることなる。そして情けない。試験に落ちることは恥ずかしいことだ。そして複数人の人間は「あの人は受かるべきだ」と考えていると予想される。受かるべき人間が受からないのは自分の場合、努力が足りていないことが第一、資質に欠けているのが第二だ。自分の至らなさが他人の期待を裏切ってしまうから、恥ずかしい。
 希望的観測は現在自分の置かれている立場では役に立たない。試験に対して不誠実だったこと。その不誠実さが愚かさの証明と裏切られる期待と不甲斐なさにつながる。上記は悲観的観測ではなく事実だという実感がある。つらい。つらいが、それに対して覚悟を決めることが日々の戦いなのだ。
 覚悟とは。現実を見つめることが覚悟なのか。実感を持って起こるであろう未来を想像することが覚悟なのか。違うような気がする。納得が必要なのだ。最近、他人の恋愛にしても、他人の瑣末な相談にしても、納得がなければならないと思うことが多い。来る現実に対して納得しなければならない。あきらめでもなく、逃避でもない、納得。でも実感のある想像と言うのは必要なのではないだろうか。想像したことを飲み下し、消化することが納得に繋がるのではないだろうか。「AがBになる。それによりCができる。」そういうことを思い、論理で解釈する。現在の自分の場合、どうか。
 試験に落ちることにより、上記の愚かさと恥が生じる。そのことにより自分の気が落ちる。悲しむ。日々がままならなくなる。かなりつらい状況になるだろう。つらい状況とはそれすなわち戦いだ。無職を求める気持ちは戦いへの憧憬と重なるのかもしれない。
 自らが悲惨な状況に置かれることに対して、面白みを感じる人間がいる。「面白くなってきやがった」というやつだ。自分もそうだし、人畜無害な腐臭が漂う今の職場である図書館にそういう人間はいないのだろうと思っていたが、いた。彼女も戦いたいのだろうか。主観に依ったハイソサエティの人間たちが日々戦うのをみて、憧憬をもったのだろうか。
 裁きの日が来るまで、忘れないこと。そして想像すること。解釈すること。最後には納得すること。